トラウマのつらさにある人は安全な場所が必要
いじめなどのつらい目に会い、トラウマに苦しむ人にとって、安全だと思える場所を見出す事が必要な事を前回のコラムにて(それ以前のコラムでも)書きました。
そうは言っても安全な場所は見つけにくい
ですが、いじめのトラウマに苦しみにある時には、安全な場所を見出す事は容易ではないと思います。一つには、人への圧倒的な恐怖感があるので、人との関わりがある場所は、安全で安心のある場所どころか、恐怖感しか感じられない場所となってしまいます。
さらに、孤独感が安全な場所を失くさせる
そのような人への恐怖感がある中では、誰もいないような他者と交流しなくてもいいような場所、そんな所が良いのではと思われるかもしれません。しかし、いじめの被害に遭遇してしまい、さらに、そのいじめの中で無視があった場合には誰からも相手にされない寂しさ、孤独感が残ります。
人から見放される、見捨てられるという孤独感
もし、その「いじめ」が起こる前に話せる人がいた場合、その人たちが急に話して来なくなる、話しても何も答えてくれないという憂き目に逢います。そのような過酷な環境は、自分は誰からも見放される、見捨てられるという感情に置き換わります。
無視という行為が引き起こす苦しみ
ですから、いじめの中でも「無視」「シカト」は誰からも相手にされないという「孤独感」、親しいと思った人達から見放されるという「見捨てられ感」こうした「つらさ」に苦しむようになります。しかも、こうした「感覚、感情」は以前のコラムにて書いたように過去の事ではなく、「今、現在」という「現在進行形」の苦しみとして抱える訳です。
「シカト」は「つながり」への渇望感を生じさせる
そのため、「無視・シカト」に会うと、「人と会いたい、親しくなりたい、その人から無視されたくない、見放されたくない」という圧倒的な他者への渇望感を起します。
「いじめ」が安全な場所を閉ざす
すなわち、「いじめ」は”他者への圧倒的な恐怖感”だけでなく、””他者に対しての圧倒的な渇望感”をもたらします。「人が怖い、人といたくない」「寂しい、誰かといたい、話したい」という相反する感情に苦しみます。こうした「人といたくない、かといって、親しくもなりたい」ジレンマの中で「安全な場所」を見出すという困難が立ちはだかります